肉体を持つことの苦痛と、生きることの意味(2)
風邪と、耳と頭の激痛に耐えながら考えたこと。
肉体を持ってこの世を生きることの意味。
それはこの物質世界での体験を重ね、それらの体験から魂が学び成長していくことです。
でもその体験は、家族や社会の中から得るものだけでなく、
間違いなくこの肉体から生じる苦痛と向き合うことも、大きな学びなんだろうということに、今回の体験から気付くことができました。
人生の形は色々あるけれど、どんなに楽で平穏な生き方を選ぼうと、肉体を持ってこの世に生まれてきている以上、肉体の苦痛からは逃れられません。
一見精巧に作られている人体も、本当は完璧ではない。
生まれつき病気や障害を持った人は沢山います。
細胞の遺伝子情報が転写される時に間違いが起これば、がん細胞になります。
肉体はその時々の心の状態にも大きく影響を受けて変化します。
老いからも逃げられられません。
そして大げさな話かもしれないけれど、例え健康な人であったとしても、眠気、空腹、尿意、気温差、…生きるということは、小さな肉体的苦痛の連続です。
あえて苦痛と言わなくても体の基本的・生理的な欲求とも言えますが、その欲求を解消するために私達は眠る、食べるなどの基本的な生活行動を繰り返している、とも言えるのです。
とは言ってももちろん、肉体があるからこその喜びも沢山あります。
美味しい物を食べる、運動をする、好きな人に触れる…。
だから肉体があることを無意味に悲観視するわけではありませんけどね。
私自身は今まであまり風邪も引かないし大きな病気もしたことがありません。
でも看護師の仕事をしながら、生きているとどうして人は、これ程肉体の苦痛で苦しまなければならないのだろうかと、よく考えさせられました。
特に、皆に平等に訪れる死。
亡くなる前は、医療で多少苦痛の緩和の手助けはできても、ほとんどの人は本当に苦しそうに、肉体の苦痛を心底味わって亡くなって行きます。(私はそのように見えました。)
その度に感じる、医療者としての大きな無力感。
でも不思議と患者さんが亡くなったときには、寂しいと感じたことはほとんどありませんでした。
それは、患者さんの心臓と息が止まり、肉体の苦しみからようやく解き放たれたというその瞬間、目の前にいる患者さんが肉体から抜け、満面の笑みで天に昇って行くのが時々見えたからです。
見えない人にとっては非常識であることは分かるので表には出せませんでしたが、魂が嬉しそうに昇って行くのを見ると、「お疲れ様ぁ〜!!」と自分も一緒に解き放たれたような清々しく嬉しい気持ちになったのです。
地球に存在する命は皆、本来は肉体を持たない意識(魂)だけの存在です。
この肉体は、今この世に存在する為に一時的に身にまとっている仮の姿にすぎません。
この世を去る時には皆肉体を置いて意識だけの存在に戻って行きます。
私達は、普段霊的な世界と現実的な世界を融合させて生きているのです。
(瞑想等をすると、自分が本来意識だけの存在であるという感覚が分かりますよ。)
こんなふうに考えると、様々な体験や肉体による苦痛を味わうことまで覚悟し、この地球に命を宿している魂達は何て勇敢だろうと、頭が下がる思いになります。
そして自分もそのうちの一つの存在であることが、誇らくもあったり。
な〜んて、予定していた以上にスピリチュアルな話になってしまいましたが…。
はいっ、ついてこられてる人!手挙げてぇ〜っ!
なんて♪
今は、体がそこそこ機能してくれていることがただひたすらに有り難く、再び新たな命を授けられたような、生まれ変わった気分。
自分の命と見える世界が、今までよりも尊く、愛おしい。
今回体調をここまで崩したのは、地球のエネルギーが大きく変化する夏至の影響を受けたこともあったのでしょうと思っています。
(まぁ、それだけ変化が必要な時期に自分がいた、ということではありますが。)
回復してくるに伴い、自分のエネルギーが以前とはすでに違っていることに気付いています。
この体験で得たことを、また人を助ける為に役立てていけたら。
そう思うと、今回味わった肉体の苦痛も終わってみれば悪くもなかったかなぁ。
そんなふうに思えるまでに、なってきました。
せっかくこの世に宿した自分の命と肉体を、これからは本当に労り大切にしていきたいと思います。